仕事にやりがいを求めるのは時代遅れ?

本日のYahoo!ニュースに、阪急電鉄の働き方啓蒙に関する中吊り広告が不評だということで、掲載後10日で撤去する羽目になったことが紹介されていました。「やりがい」を前面に押し出すことで、やりがい搾取を連想させることが批判の元と紹介されています。

私も批判側の人間に近い感覚を持っているのですが、流石にこれはどうなんだろうと、そんな気になったのでつらつらと思うところを書いてみたいと思います。例えるなら、非喫煙者による喫煙者迫害に近い印象があります。

 

ブラック企業にやりがい搾取は多いのは事実

いわゆるブラック企業では、社員に成長や達成感などの甘美な言葉を楯に、過酷な労働環境を正当化する傾向があります。

私の知人も世間でいうブラック企業に勤めているのですが、そこではノルマの事を目標と言い換え、「ノルマはないが目標はある。そして、目標は必達だ」などとマインドコントロールしているような状態です。

社員に全人格的労働(生活の全てを仕事に捧げさせるような働き方)を強いる際、正当な対価を与えようとするなら高い賃金ですが、それが叶わない企業では精神的満足感で代替しようとします。

実感しづらい「成長感」や「貢献感」によって過酷な労働を許容させることができれば、経営者としてはこれほどありがたいことはないのかもしれません。

 

ただ、何だかんだいって使われる身は楽

そしてこれは経営者のエゴだけではなく、我々日本人(もしかすると人間はすべて)が、他人の指示に従っている方が楽、という姿勢であることも助長しているのかもしれません。

ドストエフスキーの名著「カラマーゾフの兄弟」の中で、人間は本能的に誰か(何か)に隷属することを望む、という下りがあったように記憶しています。

マーク・ザッカーバーグが毎日同じ服装でいたり、イチローが試合の朝はカレーを食べると決めていたように、意思決定を簡略化することは、他の何かに集中する上でとても効果的です。

それだけ意思決定は我々にとって負担であることの裏返しなのですが、過酷な仕事においても、不満はあれど言われたことをやっている方が楽、というのが根底にあるような気がします。

また、アドラー心理学的にいえば「これまでの自分の生き方の正当化」という点で、これを肯定する意味もあるように思います。恩師(?)の体罰を愛のムチと捉えるように、頑張ってきた自分を正当化するために、傍から見ればおかしい働き方も、許容してしまうのかもしれません。

 

とはいえ、やりがいはないよりあったほうがいい

話を戻しますが、個人的にはやりがいを前面に出した働かせ方というのは嫌いです。

ですが、かれこれ10年ほど働いてきた身として、まったく意味のない(見いだせない)仕事をやるというのもつらいものがあります。

大学職員という仕事は、忙しい部署もないことはないのですが、驚くほど楽な部署・担当もあります。そういった楽なところに居ると、段々と「これでいいのか」的な思想に染まってくるのも事実です。かなりの怠け者の私が言うのだから間違いありません。

割り切ってネットサーフィンなどで時間をつぶせばいいのでしょうが、最近のパソコンは全て監視されてます(といっても、ログを辿るのは何かあってからしかしないでしょうが…)ので、羽目を外すこともできません。

Excelで謎のデータを作成したり、ひたすら所管のフォルダをチェックしたり、いらないメールを整理したりするのも、段々と精神を消耗させていきます。

そんな訳で、仕事をやる以上はある程度集中してできる仕事であった方がよい、そんな風に思います。

阪急電鉄の広告も、そういった意味では共感できなくもありません。

 

がむしゃらに働く権利?

そしてもう一つ、最近は働き方改革が行き過ぎて、私からは信じられませんが働く権利を損なっている可能性があるように思います。

過去にそういった上司の下で働く機会もありましたが、彼は働くことに大変な“やりがい”を感じていて、下手するとお金を払ってでもそれをやりたい!という人でした。彼は思想を押し付けてくるタイプではありませんでしたが、要所でその信念を語るので、私にとってはそれはおぞましい姿に見えていたのを覚えています。

スタートアップなど、何かしらやりたいことが明確な、いわゆるToDo型の人間にとっては、仕事は最高の自己実現の場です。

しかし、私のようなbeing型の人間(私の場合は楽して生きていきたい)にとっては、仕事を生きるための糧を手に入れる手段としか見ていません。そして、その時間をなるべく思うように(これも、楽すぎるとしんどいので、「あぁもう17時か!」みたいな言えるレベルの楽さで)過ごしたいと思って生きています。

そのような人間からすれば彼の働き方は異常なのですが、かといって彼の働き方を否定してよいかと言われればそうではないと思います。誰にだってやりたいことを求める権利があると思いますし、仕事においてはこうした方々が、我々のような人間を引っ張っていくことが往々にしてあるからです。

おんぶにだっこな身としては、こうした人々をヨイショして、ぜひ導いて欲しいと他力本願に思う訳であります。

 

行き過ぎは本質を見失う

正直なところ、今回の広告は30万の月収を安いかのように書いたことが炎上の元だと思います。やりがいを仕事に求めることは、決しておかしなことではなく、むしろ一般的なことです。特に大学の就活の現場では。

問題はそのやりがいを、働いている時間の個人の幸福の最大化ではなく、企業の利益の最大化のために個人を滅することに置き換えている会社の存在でしょうね。この文脈を捉えない限り、両者の視点からの話はいつまでも平行線をたどると思います。

仕事はみんなやりがいをもってやりたい。でもそのやりがいの主語は、会社ではなく人である。

今回のニュースをみて、そんな風に思ったのでした。

みなさんは、どのように思われますか?

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