日大アメフト部の悪質タックル問題が世間を騒がせています。
この問題、大学関係者以外からみると「日大はなんてお粗末な対応しかできないのだ!」とお思いになると思いますが、同業者には「うちも対岸の火事とは言えないな…。」と思われる方もいるのではないでしょうか。
ということで、大学関係者としての視点から、どうして日大はあのような対応をすることになってしまったのか、その背景について考えてみました。
すこし長くなりそうなので、3回くらいに分けて書きたいと思います。
第1回の本記事では、なぜ大学では責任の所在が分かりにくくなるのか、について書いていきます。
大学職員に関心のある方は、この業界の現状を知ることができると思うので、参考にしてみてください。
大学には至る所に壁がある
大学には様々な壁が存在します。もちろん、物理的な壁ではなく、精神的な壁です。
まず、教員と職員には、昔ほどではないにせよ、職種間の壁があります。
(同じ大学の教員からのメールが「お世話になっております」で送られてくることもあるんですよ笑)
さらに、教員の所属する学部・学科同士でも壁があるケースが多いです。
私の所属する比較的規模の小さな大学でもそうなのですから、16学部87学科を擁する日大だと尚更でしょう。
キャンパスも地理的に散らばっていますしね。
学校によっては、教授会の中でも更に派閥や学派みたいなもので壁があるケースもあるかもしれません。
これらの壁によって、大学関係者は分断されています。
互いに干渉しない風土
大学では、お互いの仕事に口を出さないという暗黙の了解があります。
これは“学問の自由”という憲法に保障された権利があるためで、基本的に教員は、何を研究しようが何をどう教えようが自由です。
研究なんかは日本全国でその分野の研究者はその教員しかいない、というような状況もあるくらいです。
そもそも、他の人にはわからないのです。
教育研究に限らず、大学行政についてもこれは当てはまります。
教員は大学運営に必要な様々な役職・担当を持ちますが、そのほとんどは能力や素質ではなく輪番で決まるケースが多く、長くても2年程度で次の役割を担うことが多いです。
下手すると、学部長や学科長といったトップ職ですらそういう状況の大学もあるくらいです。
こうなるとみんな“ブーメラン”を避けて下手なことは言えません。
会議体という名の魔物
今回の騒動で浮き彫りとなった、大学で何がことが起こった時の責任の所在。
この“誰が何に責任を持つか”、を分かりにくくしているのが、様々な会議体の存在です。
大学は物事を決める際などに、委員会やワーキンググループ、プロジェクトチームといった会議体を好んで開きます。
ここで特徴的なのは、会議体に参加する個人は意見こそ言いますが、そこでの意見は会議体としての意見、あるいは“その立場としての意見”と見なされ、参加者自身に責任が及ぶことはほぼないことです。
これによって誰が決めたかよくわからない状況に陥るケースが多いのです。
そして、さらに困ったことに、この会議体は階層構造になっていることが常です。
責任者不在の意思決定は、上へ上へと受け継がれ、責任がどんどん希薄化していきます。
この階層構造の頂点にいるのが学長で、いざという時に責任をとれる“人間”は学長だけということになります。
会見の場で「私が一応責任者ということで…。」という発言には、俺にはよくわかんねぇよ!という思いが滲み出てたように思います。
まとめ
このように、大学には壁が存在し、その壁を超えない風土があり、壁を越えて何かを決める際はお互い仮面を被っているような状況にあります。
これでは責任の所在が分からなくなって当然ですが、関係者としては、意図してそうしている部分もあるような気もしてきます。
日大アメフト問題を機に、大学の責任逃れ体質についても再考すべきかもしれませんね。
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