現役の大学職員は日大のアメフト問題をどうみたかー大学の閉鎖性と改善への期待ー

日大アメフト問題を考えるシリーズの第3弾です。
第2弾では、大学が学生団体をどのように認識しているかについて紹介しました。

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最終回となる今回は、大学の閉鎖的体質の背景と、大学スポーツ改善に向けた日本版NCAAへの期待について書きたいと思います。

 

 

大学の自治という厄介な代物

どのような会社や団体も、そこに所属する人々が主体的に運営していることに変わりありません。
ですが、大学については、“大学の自治”と呼ばれる特殊な制度保障があることをご存知でしょうか。

平たく言えば、学問の自由を保障するため、外圧の影響を受けず自主的に運営することができますよ、という権利のようなものです。
その昔、教育は政治や宗教の影響で特定の学問が推奨されたり、または抑圧されてきた歴史があります。
こうなると自由な教育・研究が出来ませんので、このような権利が形作られていきました。

現代でもこの“大学の自治”の効果はバツグンで、例えば警察なんかも、少々の揉め事では大学に入りたがりません。
(京都大学での騒動は最近ニュースになりましたね)
どうしても入る場合は、パトカーは使わず、私服で捜査することが一般的です。

学問の自由を保障する素晴らしい権利、なのですが、これがしばしば暴走するのです。
例えば、普通の会社であれば行政命令は“お上の至上命令”として従う他ないように認識すると思うのですが、大学の場合は文部科学省が何かいっても、我々は従わない!という声も少なからず挙がります。
この点を知らないと、戦略コンサルタントなどでありがちな“国の方針という印籠”をちりばめた資料を見せられても、大学には響かないどころか反感を招くこともあります…笑

教授会が力を持つ原因となったのもこの大学の自治にあり、これを拡大解釈することで、教育研究とは直接関係ない経営的な意思決定にまで大学が関与するケースが多くなっています。

大学の閉鎖性

このような大学の自治によって大学は閉鎖性を増し、象牙の塔と化していきました。
外圧を受けないとは、裏を返せば“新しい風が吹かない”ということなので、大学はガラバゴス化していると言えます。

この独特の文化は大なり小なり、そこに所属する人々に影響を与えます。
今回の問題で、日大コーチ陣の指導方法については、「まだこんなことやってるのか」という論陣を多くのメディアが張りました。
昔当たり前だったことは、時代の変化によってどんどん変わっていくものですが、大学ではこの変化が起きない・起きにくいので、こうした旧時代的な指導方法がまかり通っていたのだと思います。

 

NCAAとは

最近、スポーツ庁では日本版のNCAAを創設しようという動きが活発です。
もとのNCAA(National Collegiate Athletic Association)はアメリカの組織で、特定の大学ではなく、大学横断的にスポーツクラブの運営支援・管理を行う団体です。

日本では競技ごとに〇〇協会や〇〇連盟のようなものがありますが、それをまとめたようなものですね。
それだけだと日本と規模が違うだけであまり変わらないと思いますが、NCAAが優れているのは、1.学業との両立、2.チーム力の是正、3.収益化に成功している点です。

 

1.学業との両立

日本において体育会、特に全国的な強豪校では、厳しい練習があるため、勉強はしなくても(できなくても)よい、という風潮が少なからずあると思いますが、アメリカでは違います。

選手の学業成績が悪ければ、補習が義務付けられ、一定時間の学習を指導されます。それでも学業成績が改善されない場合は、コーチへ連絡が入り、練習や試合への不参加などの重いペナルティが課せられる場合があります。
これには大学側の協力も不可欠で、多くのアメリカの大学には担当部局(Athletic Division)が設置され、選手の練習面のみならず、学習や精神、キャリアなどのトータルサポートを行っています。

文については、日本の大学と同じように、ある種の“下駄”を履かせている(例えば、スポーツに関連する科目で多く単位を認める、などです。)場合もあるようですが、それでも文武両道であることに変わりありません。
だからこそ、大学のスポーツ選手は尊敬され、愛されるため、多くの地元民が応援するのです。

 

2.チーム力の是正

ニュースでは、日大では全国の日大付属校からの推薦など、スポーツ推薦の采配に関する実験を監督が握っており、権力が集中していたことが紹介されていました。

これと関連しますが、NCAAでは特定の大学に有望な選手が集中しないよう、大学間で調整する機能もあると聞きました。
アメリカでは大学スポーツがレジャーとして広く親しまれており、頭一つ抜きでたチームがあることはあまり良しとされないのかもしれません。

 

3.収益化

日本版NCAAの議論でもっとも着目されているのが、この収益化の部分です。
主に試合(ほとんどがフットボール)の放映権だけで、年間数千億ものお金が動くと言われています。

得られた資金は、各大学に配分され、さらなるスポーツ選手の支援に使われます。日本では信じられませんが、アメリカの大学のスポーツ担当部局(Athletic Division)は、これらの配分やグッズ販売などによって“独立採算”であることも多いです。

 

日本版NCAAへの期待

日本版NCAAは、経営難となる大学の新たな収益源として、大学スポーツを充てようという思惑が透けて見えます。
しかし、アメリカのNCAAは、長い年月と大学スポーツに親しむ国民性によって形成された仕組みであることを忘れてはなりません。

アメリカの大学では、購買部に大学グッズが所狭しと置かれ、在学生だけでなく地元民までもが大学ロゴをあしらった服や帽子などを購入し、試合の際だけでなく、日常で使用している文化があります。
日本でこうした文化が根付くかどうかは、大学が、そして大学スポーツがどれだけ地元に愛されるかにかかっています。

そのためには、健全な大学スポーツを構築することが第一だと思っています。
日本でも、選手の安全を守り、学業面を含めたキャリアを支援することで、選手がある種のスターとなって愛されるようになり、大学スポーツの清々しさと面白さが人々に認知され、結果として収益化に結び付くことが望ましいと考えています。

アメリカでのNCAA発足のきっかけは、奇しくもアメリカンフットボールでの悲惨な事故でした。
日本でも今回の日大アメフト問題を機に、大学スポーツの在り方を再考すべきではないでしょうか。

3回に分けて書いてきた日大アメフト問題を考えるシリーズ、いかがったでしょうか。
大学職員ネタは軽いものをと思っているのですが、どうしてもお固くなってしまいますね…笑
これも職業病かもしれません。

 

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