弱さのハラスメント

〇〇ハラスメントといえば一般的にはセクシャルハラスメント(セクハラ)やパワーハラスメント(パワハラ)、大学業界ではアカデミックハラスメント(アカハラ)等がクローズアップされていますが、今後はこの「弱さのハラスメント」(ヨワハラ?)が取り上げられていくのではないかと思っています。

「弱いのになんでハラスメントになるの?」と感じられる方もいるかもしれませんが、具体例を挙げていくと分かりやすいです。そして、これが将来(既に?)相当問題になっていきそうな気がするので、少し考えてみたいと思います。

 

赤ちゃんは最強の支配者

私の愛読書「嫌われる勇気」にも記載されていますが、現代社会において“弱さ”は最強の武器(権力)になりえます。同書では具体例として赤ちゃんを例にあげていましたが、「赤ちゃんはその弱さゆえに、人を支配することはあっても、誰かに支配されることはない」という感じで表現されていました。

赤ちゃんは放っておくと高いところから落ちるかもしれないし、誤飲で喉を詰まらせるかもしれません。食事も成長に応じたものを用意しなければ満足にとれませんし、寝たり起きたりするのも自由です。そして、これら行動の全ては、保護者の都合は一切無視(というより分からない)されて、赤ちゃんのペースで事が運んでいきます。これらは、育児をされた(されている)すべての方が痛感することではないでしょうか。

 

そして、保護者としては赤ちゃんに支配されてる!と訴える訳にも、逃げ出す(もちろん、一時的にはアリだと思います)訳にもいきません。ある程度日常生活が送れるようになるまで、保護者として世話をする責任があります。「保護者として何とかしなければならないが、自分の思い通りにはほとんどならず、むしろ行動を操作されざるをえない」というのが、赤ちゃんと保護者との関係だと思います。

この“行動を操作されざるをえない”というのが、大きくなった子どもとの違いで、大きくなった子どもからの操作は生存に直結するようなものよりも、承認欲求や愛情を欲すが故のものが増えてきます。また、言葉によるコミュニケーションをとれるようになると、子どもからの自分本位な操作はきちんと説明することによって回避できる場合があるでしょう。

ところが、赤ちゃんからの操作は生命維持を目的にしたものが多く、安易に回避することはできません。「言うこと聞かないと死んじゃうよ?」と言われるのに等しいわけで、保護者としては選択の余地がなく、他の操作よりも格段に支配力が強いわけですね。

 

ヨワハラはあらゆる人間関係の仲で起こりうる

弱さを武器にするのは、赤ちゃんだけではありません。

例えば、若い新人社員が部下という弱い立場を利用して上司への嫌がらせを行う(逆パワハラ)ことや、生徒が教員に対して嫌がらせを行う(逆アカハラ?)ことなどは最近でも問題になってきていると思います。

これらはパワハラ、アカハラという言葉が浸透したことで、一部の人間が自分への指導をハラスメントと解釈して、強い立場の人の行動を制限させたり、嫌がらせを目的とした操作を行うようになったということだと思います。さらにこれをやる人間は、「弱い立場の人間は守られる存在であり、ハラスメントという言葉を持ち出せば強い立場の人間は萎縮せざるを得なくなるし、周りもこれに同調することが多い」ということを理解しつつやっている点が厄介なところです。

 

上下関係のある会社組織や、教員と生徒という分かりやすいケースだけでなく、友人同士、恋人同士、家族の中でもこうしたヨワハラは存在しうると思います。

例えば不幸自慢。これは、自分の不幸な生い立ちや、境遇などを武器に相手の同情や配慮を要求するハラスメントの一形態と見なせるかもしれません。小さな子供の泣くという行為も“弱さ”を武器に、保護者の操作(=お菓子やおもちゃを要求)を目的とする場合は、ヨワハラと言えます。あまり聞きませんが、恋人にちょっと予定を聞いたりするだけで「束縛しないで!」という逆デートDVなんかも今後は起こりうるかもしれませんね。

 

ヨワハラは対応が難しい

以前は、ヨワハラは立場上は上下関係にあるものの、当事者の性格などで強弱関係が逆転している場合に起こることが多かったのかなと思います。気の弱い上司に対して強気な部下、大人しい先生に対してやんちゃな生徒などが思いつくでしょうか。昔からあったことだとは思いますが、絶対数は少なく、表面化はしてこなかったのだと思います。

それが昨今、ハラスメントへの意識が高まるにつれて、下手に知識をつけて自分に都合よく解釈する層がこれを悪用し始めたのではないかと危惧しています。ヨワハラという言葉が市民権を得、社会問題化したとして、本当に救済が必要な人が声をあげた時に「ヨワハラだ」と言われれば、セカンドパワハラとでもいえる二次被害に繋がることになってしまうと思います。

弱い立場は確かに理不尽な圧力をかけられる事がありえるので、それを防ぐことは大切です。ただ、こうして世間の目、社会からの要請という分厚い防御壁が築かれていくと、その中にいる“弱者”は面倒な指導はハラスメントと切り捨て、楽な方楽な方へと流されることが増えてくるのではないでしょうか。以前大学無償化に言及した記事の中で、弱者救済に慣れている人はそれを権利だと思い込むことがあるという事を書きました。経済的に恵まれない学生が、自分では一切努力せず「どんな支援をしてくれるのか」という支援待ち一辺倒だったという事例ですが、こうしたケースが、あらゆる場面で現れる可能性があるということです。

 

人間関係を縦の関係でとらえること(人)が一般的な現代社会では、立場に着目したハラスメント対策をせざるを得ないのは理解できます。ただ、人間関係は立場だけではなく、個々のパーソナリティにも大きく影響を受けるので、弱い立場の過度な保護は、もともと強い人には武器を、怠け者には口実を与えることになってしまいます。

横の人間関係がスタンダードになれば、そもそも権力関係を背景にした“パワー”ハラスメントなどの単語自体があり得ません(人は同じではないけど対等)。ただ、人間のサガなのか、生物としての本能なのか、人類は縦の人間関係の束縛から逃れられていませんので、ヨワハラの問題はずっと付きまとうことになるでしょうね。

まだ一般的ではない「ヨワハラ」という言葉ですが、そのうちきっと出てくるように思います。

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